知的障害者の横に座るのが怖い不快は「差別」ではない

知的障害者をよく目にする地域に住んでいるし、仕事柄関わることもないではない。

彼らの多くが実に素直で、心優しく、一部の健常者よりもよほど勤勉、勤労で、すばらしい人間であることは
よくよく知っている。

 

が、彼らに対して

なんか何をするか分からないから「怖い」

じろじろとこっちも見てこられるの「不快」

外食で隣のテーブルの知的障害者の食べ方が「気持ち悪かった」

 

と恐怖や不快感を覚えるのは、果たして「差別」なのだろうか?

そのような気持ちは悪いことだと押し殺して、笑顔で、もしくは無表情を装って接することが大人として社会人として、良識ある在り方なのだろうか?

 

逆にいえば

 

怖いと、不快と公言すること

別にどう生きても気にならないけど、少なくても私の目の入るところにはいないでほしいと思うことは「罪」なのだろうか?

 

せっかく建てたマイホームや購入した分譲マンションのとなりに、後から知的障害者が引っ越しをしてきた場合

それを不安、不快、ショックと感じどうしようもない悲しみに暮れることは「罪」なのだろうか?

 

よく知らないからだと言われる。

 

彼らのことをよく知らないから、不勉強だから、だからむやみやたらと恐怖を感じるのだと責められるのだろう。

 

しかし、彼らは以下の点について真剣に考えるべきだと思う。

少なくとも、今の共生は本質的なところから目を背けているだけだ。

 

1.よく知る義務なんてないだろう?

一見して危なそうな人間には近づかない
これは、現代社会、特に都心部などの人口密集地における、自己防衛の基本中の基本だ。

 

皆顔見知りの田舎とは違って、隣に住んでいる人も知らないような現代社会においては
その人がどんな人物かなんて見た目で判断するしかないし、それ以上の時間的コストなんてかけられない。

 

だから、街で見かけた知的障害者が
安全なのかどうかなんて分からないし、見かけてブツブツ言っていたり、奇妙な行動を取っていたら
とりあえず側には寄らないし、近くにいればその分、何か合った時に自衛をしなければならないので
気が落ち着かないし、そのようなストレスを感じるのは不快である。

 

当然だろう?

その知的障害者の障害の程度なんて分からないし
ただ、ぶつぶつ言っているだけなのか
それとも、何かのキッカケで

いきなり抱きついて来る可能性は?
殴りかかってくる可能性は?

はないのか? なんて分からないし、そんなこと知る時間的コストをかける義務なんて
こちらにはないのだから。

 

2.リスクがゼロは詭弁だろう?

 

3.不安とすら言えない社会は歪んでいるだろう?

 

4.社会的弱者であって行政的強者だろう?

 

 

健常者目線、現実目線で考えた共生のための具体的提案

精神障害者と健常者が真の意味で共生するためには何が必要か?

 

1.脅威度判定の基準を作り、それをシールなどで見える化する

ただブツブツと独り言を言っているだけなのか、それとも何かのキッカケで
殴りかかってくる可能性があるのか、そういった脅威度が分かるような基準を作り
それをシールなどで、ひと目で分かるようにすることは、健常者側にとって非常にありがたい目安になる。

分からないから怖いのであって
何か目安を提示してもらえればそれだけで安心するのだ。

ちゃんと学校卒業しましたシールでも
電車に乗れますシールでも良いが

とにかく、分かっている人、組織がちゃんと見て、何らかの判断を下したということが
分かると良いのだ。

これが理解を求める態度である。
分かって欲しいと言いつつ、このような努力さえ放棄しているのだから、ただ横に
いるだけで怖がられても仕方がないだろう。

 

2.保護責任者の監督責任を明確にし、行政司法が適切な運営に努め、周知する

 

3.警察は対応を厳格化し、泣き寝入りのない社会を作る

 

4.知的障害者によって損害を受けた場合の補償制度を作る

障害者用の補償制度を国が主体となって作って、知的障害者の加入を義務化して
もしもの時の保障を、国が責任をもってやるようにすれば良い。

現実を見て、人道的見地や差別などと理想論(寝言)を言わなければ充分に可能である。
むしろ共生とか言いつつ、この程度の制度もないことが行政的不作為であろう。

この制度の肝は、収支計算上、成り立っても成り立たなくても作るべきだというところだ。

知的障害者全体から徴収する基本保険料が、年間に支払う補償料よりも多いのであれば、逆に
それほど多くの健常者が泣き寝入りを迫られているいるということであるから、国庫から持ち出しをしてでも作るべきであるし

収支上、制度として問題なく運営できるなら、倫理的な問題をクリアしてでも、作らない理由はない。

つまり、どう転んでも作るべきなのだ。

保険とはリスクに応じてあるべきだし
自動車の任意保険のように、当事者はともかく、被害者のために絶対に入るべきものがある。

子ども用の保険があるのに
知的障害者用の保険がないことの方が差別である。

知的障害者によって、生命、財産に傷を付けられたとしても、基本的に泣き寝入りとなるのが
今の日本の現状だ。事実かどうかは客観的な統計が「行政的配慮」によってないので、不明であるが
一般的な認識としてはそうではないだろうか?

泣き寝入りとは、行政も警察も腰が引けてなかなか取り合ってくれないし、司法も
民事刑事ともに障害者寄りであるし、仮に判決が出ても、財産がなければ保障されない。

たとえば、あなたが高級車を持っていて、それを通りがかりの障害者が傷を付けたとして
監視カメラに写っていたとして、証拠は全て揃っていたとしても、多分あなたは自分の保険を使うなり
自腹で支払うなりするしかないというのは、あなたにまともな社会感覚があれば同意していただけると思う。

(それとも、あなたは請求できると思うだろうか?)

5.知的障害の程度によって最小限の体罰を取り入れた幼少期の教育システムを確立する

健常者でも、体罰なしにはどうしようもないクソガキがいるのに
全ての知的障害者を体罰なしで真っ当に教育できるなんて、理想論はさっさと卒業するべし。

そんな現実から目を背けた理想論から抜け出せないから、現場レベルで対応する羽目になる。

知的障害の程度によって、どの程度の体罰は許されるのか、しっかりと
教育システムとして確立して、現場レベルの判断に丸投げせず、組織として実行していくことが必要だ。

障害の程度、本人の生来の性格によって
話せば分かる子もいれば
アメとムチで躾けないとどうしようもない子もいる

こんなこと現場レベルでは「常識」であるし、その現実に蓋をして、あくまで現場レベルの対応に任せるから
絶えず責任と判断を求められる現場は疲労するし、時にやり過ぎたり、逆に何のしつけもされないまま
社会に放り出したりする。

ちゃんと組織として責任をもって、ここまではやって良い、これ以上はダメと、線引きした上で
現場に徹底させるべきだ。

障害の程度によって、必要な対応を模索し、実行することが
合理的な配慮であれば

知的障害の程度によって必要な教育を施す、これこそが合理的な配慮というもので
単に社会的道義的責任を取りたくない、説明責任を果たせない、という逃げの姿勢で

一律に体罰を禁止する教育システムを表立って掲げ続けることこそが
真に「合理的配慮を欠く」教育といえる。

 

 

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